木彫「カラスが鳴くから帰ろう」(1975年制作 ・高さ2m10cm
 大学学部では彫塑(粘土)・石彫・木彫・金属・乾漆等、ひと通り学んでから1つを選んだ。
 初めて彫った木彫が今日に至るまで約30年続いてきた、母子シリーズの始まりだった。まだ20歳そこそこの私が何故「母子像」だったか、当たり前のようにこの母子像を彫っていた。「夕焼け空の下、農作業を終えた親子が家路を急ぐ。
 見上げた空には、やはり巣へと急ぐカラス達がカァー、カァーと泣きながら群れをなして飛んでいく」。もうすぐ地平線に沈む太陽の光を浴び野良道を手をつないで帰る親子、その影は長くのびている。故郷の井中のある夕方の母と子を彫った作品だ。

 芸大「木彫教室」は吹き抜けになっている、2階教官室前の通路下にあった。
大学院では淀井教室の生徒だった。その淀井教授があるとき、2階からアンパンを落してくれた。「オイ、宇賀地、ほら・・・」見上げると先生の手から何やら落ちてきた。キャッチするとアンパンだった。当時の私は痩せていたから、そんなヤセッポチが2m以上もの大きな木と格闘しているのが気の毒になったのかも知れない。 
すぐさまそのアンパンは私の空腹の胃袋に収まった。以来、淀井教授は私のなかでアンパン先生である。1個のアンパンにどれだけ励まされたか知れない。
その淀井教授のお陰でこの母子像は1978年頃、西武池袋線「仏子」駅近くの「武蔵野音楽大学」の構内に収まることになった。
その後、数十年が過ぎ結婚して子供も2人となった我が家族は義母と7年前に狭山市へ引っ越してきた。2年前には入間市にアトリエを借りた。そのアトリエの裏山の向う側は武蔵野音楽大学「駅名は仏子」どこかで聞いたことのある響きであった。
そうだ、たしかにあの大学には私の木彫が置いてあるはずだ。訪ねてみた。
コンサートホール「バッハザール」という建物の地下にあの母子が立っていた。
赤茶色の煉瓦の壁をバックに立っている母と子はまさしく夕焼けの中、家路に急ぐ母子だった。芸大在学中に音大に納めて以来、実に30年近い年月が経っている。
自分が 30年も前に彫った木彫と並んで写真を撮ってもらったのだが、まるで大きな我が母に寄り添うような、木彫の子供は私の姉妹のようで3人がまるで親子のような、そんな不思議な気分を味わつた。
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